今日はちょっとレアな感じで、タリカの昔語りをば。
昔、カリフォルニアの片田舎に住む男友達と、その友達のラコタ族の人に
連れられて、車を飛ばすこと、確か2時間くらいの森へと向かった。
アメリカ人は2時間くらいのドライブは、「ちょっとそこまで」と、気軽に 出かける範囲だけど、車を運転しない日本人女子の私にとっては、 「また?2時間も〜〜、長い〜、遠い〜〜〜、どこ行くの〜〜〜」となる。
そのあたりでは、満月の晩になると、どこからともなくいろんな種類の人たちが 集まってきて、森で大きな焚き火を囲んでドラムサークルがあるのだ。
小学校の縦笛以外は、まともに楽器を触ったこともない私は、 ドラムはかっこいいけど、やってみたいのはやまやまだけど、無理! というわけで、楽器に対してすごいコンプレックスがあった。
彼の家でも、友人たちが気軽に集まってきては、ドラムセッションなるものを 楽しんでいたので、その森へ行く前に、ほんの少しの時間、私も彼のドラムを 触らせてもらった。さすがカリフォルニア!片田舎ならではかもしれないが、
音出しに関して近所に対する配慮は一切ない。 どこかのご近所が大音量で音楽を鳴らしていたって、誰も気にしない。 公園では大声を出してはいけない、お祭りは夜8時だか9時だかに
終わらせないといけないどこかの国とは大違いだ。
話は戻って、その「ドラムサークルに集ういろんな人種」とは、 ハレ・クリシュナの人たち、レインボーファミリー、 赤い道に従う人たち(正確な表現を忘れてしまったけど、そんな感じ)
他にも、公務員や運転手、庭師、大企業にお勤めする人、などなど。 サニヤシンは見かけなかったwいたのかもしれないけど。
ちなみに、日本語のリンクが発見できなかったのは、日本ではこういう人種が
棲息してないからなんだろう。(ざっくりとしか見てないけど)
赤い道に従う人たち、というのはインディアンの教えに従う人たちのことで 白人も、黒人も、赤い人であるインディアンの教えに従って生きることを
信条としているそうだ。 赤い人々のことは、私のすごく深いところに触れた。(また別に書いてみたい)
様々な人種、様々な生き方を持つ人々が、どこからともなく満月の夜、 森の中に集まってきて、特になんの前説もなく、人々は語り合うこともなく、 ただ淡々とドラムを叩き始める。 誰かがリードしているのかもしれないけれど、それが誰だかもわからない。
ドラムのリズムは月が高くなるにつれて昂まり、グループ全体で無言の
陶酔の境地へと入っていく。 巨大な炎は、その音の昂まりに合わせて勢いを増していく。
ドラムの音、炎と人が森と一体となって、大地と一体になって一つの物語を 織りなしているようだ。 力強いリズムの物語は、私の叩く下手くそなドラムすらも飲み込んで、
地球の鼓動と一つにしてしまう。
私のちっぽけなマインド「うまくやらなきゃ」なんていうのも 大地の喉元から腹わたへとゴクリと呑み下された。 いまや私が大地で、大地が私で、そこにいる全員は一人一人が素晴らしく
独立した個人であり、それでいて一つだった。
体の内側で昂まってくる歓びのリズムは、私の中で少しずれて狂い気味だった
ハートのリズムをカチッと正しい場所へと戻した。
DNAの深いところにしまわれた縄文の血が一瞬、うごめき立ったのを
身体の奥底で感じたことを、一生忘れないようにしようと思った。
日本の空気の中では味わえないような、こんな時間を私たちは「あたらさと」で
再現しようとしている。いや、再現ではなくて、私たち独自の縄文的な、
古代日本的な陶酔の時間になればいい。
日本の現実を変えることはできないとしても、ささやかな何かを
創り出すことならできるだろうと思う。
つまらないマインドを大地に返そう。
心配しなくてもいい。
大地は、人間の体から出るものすべてを滋養に変えてくれる懐を持っている。 タオのグランドマスター、謝明徳(マンタク・チア)も言っていた。 汗も涙も、大も小も、すべて大地が滋養に変えてくれる。 私たち人間の母は、大地なのだから。