学びの途上で「真実が知りたい、でも真実って一体なんだろう?」と思い、
その探求にはやはり瞑想するより他に道はないらしく、それなら瞑想ってなんだ?
と取り組むうちにチベット仏教やOSHOに出会いました。
OSHOは、セックスが瞑想になり得ること、
そして「独り在ること」と「孤独なこと」は根本的に違うのだと話していました。
本当にショックでした!
命の脈動や、死について、そしてセックスについての人間の根本的な
サイクルと営みが、魂の霊的成長と私の中では全く繋がっておらず、
別々に存在していたのでした。
魂は無限の永遠時間を生きていたとしても、肉体を持った今の私は、
有限の時間を生きています。なんの制限も持っていない魂は、肉体という
制限を得て初めて、何かを獲得し、歓び、泣いて、笑って、共感し、怒って恨んで、
妬んで、そういうネガティブな感情と向き合うことで、
人間として学ぶことができるのです。
私の肉体は、あとどのくらい持つんだろう?
まだ女として生きられるんだろうか?
そして私は残された時間で、どのくらいの学びを体験することが
できるのだろう?と思いました。
さて、そこに気づいたら、ぐずぐずしているヒマはありません!
子育ても終わりに近づいて、もう自分の人生を脇において子供に注いだり、
自分がいい母親でいられないことへの罪悪感のリスト作りに力を注いだり、
そんな私は親にこんな風に育てられたからダメなんだって、自己憐憫の
言い訳特集の自分誌を廃刊せざるをえなくなってしまったのです。
とにかく、早いも遅いもなくて、今、気が付いたのだから
今がその時で、自分にとっては青天の霹靂のような啓示的導きに
したがってみようと思いました。
随分と遅い気づきで、さぞかし娘も迷惑だったろうと思うのですが、
しっかりと育っている娘を見るにつけ、ああ、子育てって、私が頑張って来た、
この人生を捧げて来た、と思ってたけど、ここまでちゃんと育ったのは、
本当は彼女の魂の力が、そう育つように選択して、望んでやって来たことで、
私の力ではないんだ、と、やっと納得がいきました。
子供は天からの授かりものではなく、預かりものだったのです。
なんという親のエゴの罪深さ。こういうのを子供に刷り込んで来て
しまったのだわ!気づきが無いってことが魂の経験の中で、一番恐ろしい
ことなんだと思いました。
P.S インドから、徒然をお送りしています。
そろそろ帰り支度の頃合い、後1週間!