で、その西洋の愛について、ギリシャ語では愛は主に4種類に分類されています。
(性)エロス:本能的な愛。肉体的な愛、主に男女関係の愛、見返りを求める愛。
(生)フィリア:友情愛。友達、同郷、同邦のような連帯感の愛。
(生)ストルゲ:親子愛。親子関係の愛、師弟関係の愛。
(聖)アガペー:神様の愛。無条件の愛、見返りを求めない愛。
というわけで、愛に明確な居場所を与えているわけです。
残念ながら日本ではそういう文化はありません。なのにセックスや愛の概念だけが西洋化
されちゃった、それが混乱のもとなんでしょうか?
日本人は物事をはっきりさせるのを嫌う傾向があります。
「なんでもありだよね」
「私とあなたは違うから、同じ意見じゃなくていいよね」
当然そうですが、聖書のように理解の土台となる共通の言語を持っていない私たちにとって
「愛とは何か」という探求は、すべてがうやむやの霧の中です。
そして「愛すること」と「性欲・エロス」は別の次元の出来事なんだってことを
はっきりさせておかないといけません。
生命の本源、エロスの愛からアガペーの愛へと昇華させていくことは、太陽に照らされて
温まった海から蒸気として昇華した水が、冷えて雨となって海へと降り注いでいくさまを
思い起こさせます。
セックスレスのカップルが、「私たちはフィリアの愛だわ」とか「ストルゲの愛だわ」
ということがあるかもしれませんが、愛はアガペーまで持ち上がって初めて、
海ーエロスーへと還っていく循環の輪ができあがるのです。
途中で止まっちゃったら自然の摂理から外れてしまいます。
エロスはこの循環の中に必ずあって、アガペーの愛へと立ち上がらなければ
友達的愛、家族的な愛の中のセックスレスにほのぼのと立ち止まるか、どろどろとした
淀んだ水の中で、複雑なドラマが繰り広げられるというわけです。
昔は西洋でも、東洋でも、顔も知らない人との結婚なんていうことがあって、
「それはひどい!」と、現代人の私たちは思いますが、昔の人たちは、エロスと
フィリアを別のものだと捉えていて、エロスから始まった愛は、刹那的で
関係を長く続けるのには、あまりうまくいかないと信じていたんです。
セックスについて語るときに、
「うふん、気持ちいいいぃぃ、私たち溶けあっちゃう〜♡それが最高なのよ〜」
それもいいけど、それだけではちょっと違う感じがします。
エロスをアガペーへと昇華させて(愛を育てる)、霊性(スピリチュアリティー)の高みへと
昇華させていくためには、情熱(ハートの火)と、知性(第3チャクラの太陽)
の暖かなエネルギーに照らされることが必要です。
だって私たち、人間として生まれてきてますもんね。
性・Sexから端を発した命、魂は、生・Lifeを経て、聖・Spiritualityへと向かい、
性・Sexへと還る循環の輪のなかにあるのが自然です。
その螺旋運動は、宇宙の流れに沿った魂の自然な運動の形だと、私は思います。
生・Lifeが昇っていくために、聖なる女神、アガペーの側からのサポートが、
太陽の恵みのように暖かく私たちを照らしてくれます。
そして、人として、親としての成熟とは、子供達は私たち大人と同じように
愛の体験をしに、愛を学びにやってきたのだと理解して、信頼することで、
自分の所有物のように大事に守って奥の戸棚に隠しておくことではないのだと思います。
親も子も、どちらの立場からも、そんな理解が成熟した一人の人として、
目指すべき姿なのかなぁと思うのです。