最近は、みんながとにかく成功しなきゃいけない、と思っている。 挫折を知らない人々は、今まで挫折しないように注意深く 生きてきたのに違いない。
私はどうかって? 私は人生ドブ川そのものだったって話を前にウダラとしたことがある。
そりゃもう女一人で子供抱えて、何度米びつを空にしてきたことか。 愛想を尽かした男と暮らすなんてことは、 まったく考えも及ばないことだったから。 愛がなくなると、男の匂いそれ自体がもう鼻について、一緒になんかいられない。 そういう忍耐のないところは今も変わらないかもしれないが…。
社会に馴染めないとか、そんなこともどうでもよかった。 ただ生きているだけで精一杯な日々をどれだけ過ごしただろう。 何度、もうダメだって思ったことだろう。 朝、目が覚めたことを「残念だ」と思うような。 かといって、死ねるほど生き切ってもいなかった。
それは、誰それとうまくやっていけないとか、 そういう人間関係の問題ではなく、純粋にサバイバルの問題と、 挫折の道を意図的に選んでいるようにすら見える、そのやり方。
長い長い暗闇の時代、そのときに、壮絶な人生を生きる大勢の女性たちに出会った。 若かった私は「世界で一番苦労しているのは私」と、うっすらどこかで 思っていたけれど、全然私の人生なんか楽勝だってことを すぐに思い知らされた。
「鏡よ鏡、鏡さん、世界で一番可哀想なのは誰?」「それは私」 なんて、白雪姫の継母じゃあるまいし。 いや、しかし世界はやっぱり鏡だったのだ。 だいぶ長い間、その遊びに取り憑かれていたけれど、OSHOにがつんと言われた。 「いいかげん、その遊びをやめなさい」
「女神の集い」は、そんな挫折とサバイバルを生き抜いてきた私から、 悩める女性たちに送るオマージュHomageなのだ。
どんな場所にいる女性も、みんなそれぞれの過去があった。 水商売の人、風俗の人、やくざの女、学校の先生、政治家に経済人、 モデルに女優、どんなに美しく、裕福に見える人でも、深い闇を抱えて生きていた。 ときには裕福な人たちほど、洞穴のような底なしの闇を抱えていることもあった。 自分の家の小さな質素な食卓が、暖かい光に包まれていると感じる瞬間...
比較、比較、ジャッジメント、そしてまた比較、羨望と妬み….終わらない闇のゲーム。 底なし沼に手を突っ込んで、落とした100円玉を必死に探して、 気づいたら自分も沼に引き込まれている、というシチュエーション。
私は十二分に、人生に疲れ切っていた。 幻想で曇った鏡を見続けることをやめて、今ここにある真実に目を向けていこう、そう思った。 どんな真実にでもOKを出すってことは、そう簡単ではなかった。 何しろ私は、ドブ川に胸までどっぷり浸かって、悪臭を放っていたに違いない。
女神の集いは、女らしく振舞うことを推奨するグループではない。 底なしの闇の中から持ち帰ってきた、命の秘密を分かち合いたいと思う。
男性性は、変わらない不動の精神、純粋な精神原理のシヴァ神 女性性は、すべてを包含する宇宙、そして現実世界を創造していく力としてのシャクティ女神
女神の集いの、女性性の開花とは、小さな箱に押し込んでしまった 自分の力を取り戻すこと、自分たちの内側に眠る創造の力と出会うこと。