たぶん同じことを何度も言って来ているのはわかってるんだけど、
また言わしてもらっちゃいますw 今回ハワイにいて、感じていたこと。
今年も月日が進むほどに、この世界のエネルギーはどんどん軽く、
そして微細になって行き、確かに素早く「思えば叶う」世界になってきているのを
ひしひしと感じている。
物事はあまりにも早く展開し、1週間はまるで1ヶ月のよう。
1ヶ月前のことは、ほとんど1年前のことなんじゃないか、と思うほどに、
濃密で鮮やかな時が流れている。天体の運行の影響も、目に映る緑の眩しさも
空の青さや雷の音も、日常の人間関係や経験も、全てが鮮やかで濃密だ。
外国に出ると、余計にそう思うのだけど、やはり日本は地震を境にして、
他の場所とは少し違うサイクルに入ったのだろうと思う。
だからきっと、誰の人生も、よくも悪くも今までよりもさらに濃密さと鮮やかさを増して
いるのではないかと思う。物事が動く速度は、息着くヒマもないほど加速している。
このエネルギーの波に乗って、自分の魂の召命を実現する時がやってきたのだ。
何を学ぶために、何をするためにこの地球に、今ここに生まれてきたのだろう?
誰もがそれを知りたいと思っているだろう。
それを知って、現実化して行くには、ただ直観に従って行くしかない。
それがどんなに無茶で無謀で、怖いことに思えても、それに従うのだ。
命あっての将来だし、人生だ。身体がなければ何も成し遂げるとができないと、
私たちはあの日目の当たりにしたのだ。
古い常識や世間体、社会の枠組み、両親からの期待といったものが、あなたの行方を
阻むかもしれない。それでもあなたの魂が望んでいるなら、それに従って生きるのだ。
望めば叶う、思えば叶うのだとしたら、何を実現させたいと思うだろう?
無意識の底に沈む犠牲者意識や恐怖や諦めに、人生を支配させているヒマはない。
一瞬一瞬を鮮やかに生きるのだ。それを「欲張り」だと思うのは、誰の思いなのだろう?
人生に強くコミットするとき、失敗や痛みは今までより、何倍にも増して感じる
ことがあるだろう。でもその現実を生きることが出来なかった後悔に比べたら、
それが何だと言うのか?
人生を閉じる瞬間『できることは全てやった』と言えるような瞬間を迎えたいと思う。
注意深く,痛みや失敗を避けて歩いた道は、充実した美しい道だったと言えるだろうか?
「清水の舞台から飛び降りてみたら、そこは仏の掌だった」
誰しもが、そんな感じを味わったことがあるだろう。危険な道を選んだとき初めて、
神仏とか、見えないもの、大いなるものの助けがやってくる。
恐怖や障害を乗り越えて、自分自身に誠実であろうとする時、まるで見ていたか
のように、誰かが助けてくれたのだろうとしか思えないようなことが起こる。
人の魂は、神から分かれた、神の一部なのだ。
自分の魂が、そんなに神聖だとは感じられない人がもしいるとしたら、危険に
満ちた道を歩いてみることを強くお勧めする。
そうしたら、自分の魂がどんなに尊く、神聖なものなのか、きっとわかるだろう。
そんな誠実さと危険に満ちた人生を歩く時、魂の乗り物としての身体は、
よく手入れされているべきだ。どこか故障箇所があるにしても、最善を尽くして
手入れして、少しでもスムーズに進めるようにするのは、私からしたら「義務」
だとも言える。だって自分の身体は自分しか手入れはできないのだから。
タオイストのプラクティスは、3次元の地球上で身体ごと魂が宇宙と整合
しながら生きるのを強く助ける。
気功やチネイザンなど、タオの道士の修練は、まさに肉体を持って
神ととともに在ることだ。肉体を乗りこなし、魂に自由な表現の形を取らせる
ことができるように、気、エネルギーを練り、オーラを鮮やかに濃密にしてくれる。
ヒーラー、ボディワーカー、アーチスト、先生、会社員、公務員、母、妻、父....
どんな表現の形を選ぼうとも、タオイストの修練はあなたを支えてくれるだろう。