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執筆者の写真Deva Tarika

夕暮れ時に


2016年は「赤い申の年」で、激動の年なんだと言われたのを、今頃思い出す。

激動って、どんなことが起こるのかとドキドキしたけど、

私自身は本当に、とにかく移動しまくった。

移動先で待ち受けるのはつねに非日常で、ルーティンがあるとしたら、

人間としての基本的欲求〈風呂、飯、寝る〉を満たすことぐらいだ。

そんな日々を送っている間に、2016も終わってしまう。

これが激動の年ってことなんだ、と終わる頃にわかった。

そのぐらい動き続けていると、関係性を紡ぐ時間はほんの一瞬しかなくて、

もはや人との出会いは立場や役職、友人かどうかも超えて、

人間同士の魂のスパークみたいな一瞬だった。

短い時間で、心から出会いたい、繋がりたい、と思ったら、本当に一瞬のうちに

つながることができる。どのくらい長くその人を知っているか、とかも全然関係ない。

ただ「ハートが響き合う」かどうか、それしかない。

すべての出来事も、出会いも経験も、既知の直線的な時間軸の上にはなく、

聞いたことはあっても馴染みのない、未知の時間軸の上を、

複雑な螺旋を描きながら移動しているようだ。

年末に引いた胃腸風邪の盛大な上下噴水のせいで、

体の中の組成成分だって、私の知らない何かに変化したんじゃないかと思うほどに。

相変わらずそれは水分なんだけども、小さな泡みたいに軽くなって上の方へと運ばれていく。

変化は、日常の中へと静かに忍び寄って、知らない間に現実を変えてしまう。

そんな螺旋の時間の日々をすごしてから迎える大晦日は、一年を1日としたら、

夕暮れ時みたいなやさしい「あわいー間ー」のようだ。

忙しく働いた後、古くから住み慣れた街の、通い慣れた家路につけば、

家々から夕飯の準備をするいい匂いが立ち込める、夕暮れの時間。

一旦家に帰る。明日はまた始まるんだけれど、今はとにかく、家に帰るときなのだ。

暖かな部屋で温かいものを食べれば、不思議とほっとして、満たされて

外でいったい自分が何を探し求めていたのかすら、忘れてしまいそうになるくらいに、

静かな満ち足りた時間がやってくる。

ずっと忘れていた大切なものに出会ったときの、あの感じ。

なぜ私はそんな大事なものを忘れていたんだろう?

それを「知っていて」くれていた人と出会ったときの、あの感じ。

もう探しに行かなくてもいいんだ。

私は、ここにいる。

死んだ男について行ってしまった自分の魂の一部が、再び私と出会った年の夕暮れに。

おかえり、私。

夕闇は、現在と過去、向こう側とこちら側、あなたと私、人間と物の怪、

輪郭だけをうっすらと残してみんな包み込んで、そっと優しく抱きしめる。

今は未来すらも、輪郭をなくして夕闇の中でまどろんでいる。

そしてまた、目が覚めたら身支度を整えて、家を出る時間がやってくる。

明日のことなんて、誰ぞ知る。

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