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幸運の収穫のしかた


今年は特別な年なんだと、いろんな方がおっしゃっているようです。 特別じゃない日、特別じゃない年などないんだけどw 年が明けて 新しい気分になると、「そうだ!今年こそは!」 なんて、毎年思ってしまうものですよね。

年末に幸運の星木星が、さそり座から射手座に移動しました。 木星は射手座のルーラーなので、自分の家に帰還したわけなので、実家に帰って くつろいで実力を発揮してくれるという意味では、幸先明るい年なんじゃないかと、 単純な頭では思います。

よく占星術では言われることですが、この12年に一度の幸運は、木星が巡ってくる までの間をどう生きてきたかによって、幸運の度合いが変わるということです。 それまでの11年をどう生きたか。 目の前に置かれた課題から逃げないで取り組んだかどうかってことで、 道に落ちてる1万円札を発見するか、宝くじに当たるか、ぐらい幸運度合いに 開きができるということです。 口開けて待ってるだけじゃ何もやってこないってこと。

自分の畑を、嵐が来ようと日照りになろうと、世話して愛情をかけた人、 土が良くなるために、有機の肥料を与えたのか、害虫から守るために 農薬を撒いたのか、で今後の土の健康度合いもきっと変化するでしょう。 いや、私は自然農法だから、信頼して放置するのが一番! なんて人もいるでしょう。

OKです。 気候に合った、土地に合ったものを植えて、天を信頼して「待つ」ことができれば。 人の小賢しいマインドを介在させずに、大地と天候と、植物が主人公で、 自分は脇役、ただついていくだけって感じだと思います。

これにはもう、どこまでも澄んだ耳と、実際に見えてるもの以上に その背後に流れている力も感知しないと、いい脇役にはなれませんよね。

「待つ」実りを待つ、成果を寝て「待つ」には、人事を尽くしてないと まったりと寝てばかりもいられません。 だけど、タオイストの極意は「無為の為」です。 これは何もしないで物事を成していくことですよね、シンプルにいうと。 さて、このパラドックスにどう向き合ったらいいんでしょうか。

先日、インドのティルバンナーマライのシバ・シャクティは沈黙の聖者でした。 シバシャクティは、何も語りません。ただ微笑んで祝福を与えるだけです。 何も語らないのだから、どんな教えも創り出しません。 その周りでどんなドラマが繰り広げられようと、彼女の意思は介在しておらず、 全てが周囲からの投影です。 人間と神との関係も、そんな感じなんだろうなと思います。 沈黙する神の周りで、人間たちが宗教を作って、自分の正しさを証明し合い、 競い合い、やがてそれが暴力的に戦争に発展するみたいに。

幸運の周りもまた、そんな感じなんでしょうか。 自分の方が幸せで、守られてるし、ついてるし、なんてね。 最近のスピリチュアル系みたいですねw うふ

じゃあやっぱりここはひとつ、自分自身が幸運になった方が良さそうです。 幸運の中に入っていって、幸運それ自身になるということです。 OSHOは、あなたがブッダだ、と言います。外側にいるブッダを拝むのではなく、 あなた自身がブッダなのだと。 神・女神は外側にいるのではなく、自分自身が神・女神なのだということですが、 それを受け入れることは人間にとって結構難しいことです。 この2000年、2500年は、それを受け入れないために戦ってきた歴史なの かもしれません。

幸運を司るのは女神です。 幸運の女神が微笑むのを待つよりも、自分自身が微笑んで、 あなたが微笑むたびに、周りに幸運を振りまいてるっていう方が 楽しそうじゃないですか。

石器時代から続くインドのお祭り。

さすが、古くなればなるほど神の姿は超越していて強烈ですね。

現代人のつまらん常識なんか、ぶっ飛んでしまいます。

女神がこんな顔して微笑んでも、逃げちゃダメよー

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