BIPSのトレーナーには、「永遠の沈黙」というサニヤス名を持った先生がいる。
これも思ってもみなかった私のBIPSでのギフトの一つだ。 彼のレクチャーは毎回面白すぎる。さすが永遠の沈黙だ! 沈黙の中に真実がある。話されることの中にはたくさんの防衛がある。
OSHOを知っている世代がナタラジ瞑想をリードしてくれると
「エゴー自我の中心である踊り手を忘れ、
踊りそのものになりなさい。」
というOSHOの言葉が、生き生きと蘇ってきて瞑想の中に魂を吹き込む。
やっぱり、心理学の学びが瞑想とともになかったら、私は早々に
ドロップアウトしていたかもしれない。
そして
「いのちがエゴに引きずり回されている。 いのちを取り戻しなさい。」
という「永遠の沈黙」先生のスーパーヴァイズは、私のそれまでの
忙しさの中に、染み渡るように入ってきた。
「ああ、そうです。今私は自分のエゴに引きずり回されている
ということを受け入れました。」
という言葉を口の中で、ハートの中で、美味しい飴をころがすように
味わってみた。
「「あなた」が踊っているのをすっかり忘れ、 自分が踊りそのものだと感じるほど深く踊りなさい。 区別、分 裂は消えなければならない。 そうしてはじめて、踊りは瞑想となる。
踊りと踊り手のあいだに区別があれ ば、それは一種の体操だ。 健康的でいいものだが、霊的精神的とは言いがたい。 それはただの踊りに すぎない。 踊り自体はいいものだし、それはそれですばらしい。 踊った後には、新鮮で若々しく感じる。
だが、それはまだ瞑想ではない。 踊り手が消え去らなければならない、踊りしか残らなくなるまで----。
OSHO」
ナタラジの中で、エゴがいのちに溶けていって、
いのちがエゴを包み込むのを見た。 頭が丹田に向かって落ちていく。 頭がハートに向かって落ちていく。 いのちが丹田から吹き出して、エゴの方まで昇り詰めて包み込む。
いのちがハートから溢れ出してエゴを包み込む。
「踊っている」というDoingをすっかり忘れて、私が踊りというDoing
そのものになったら、もうなんの区別も分裂もなく、どんな葛藤も消えていく。
私のエゴのDoingは、踊りに溶けていって、踊りそのものになる。
なんというシンプルさ!
複雑さや多忙さは、エゴの作り出したドラマなのだ。
今の私にとって、というよりも、私が生きて行く上で、 それも、私のやり方で生きていこうとする上で、これ以上に大切なことはない。 私が世界に届けていきたいと思うことは、まさにそれなんだから。
まさかBIPSでもサニヤシンに出会うとは思ってもいなかった。
BIPSは私に、真実で居続けるための道をつけてくれる。